おはようございます!
本日は民宿一里木さんにて起床。
8/13(火)、今日は山を降りて松山に向かいつつ6つ札所を巡っていきます。今回は長いので前後編に分けました。よろしくお願いします。
それでは今日も元気に、おへんろ!
朝ごはん
おせったいでいただいたトマトを丸かぶり!水々しくて甘さと酸味が丁度いいおいしさ。
7:38 出発
相変わらず今日もいい天気
昨日食べたラーメン屋。チェーン店らしく他のところでも良く見かけました。
松山まであと30キロを切った!テンション上がるなあ。
ここで自動車専用道路との交差点に入るので車通りが少なくなる。
8:48 休憩所を発見。
レストパーク明神さん
お手洗いもあって快適に休めます。
台風が次の日から今朝来る予定だが今はこんなにいい天気。
スキー場発見。四国ってあんまり雪降るイメージないんだけどこの辺標高高いから結構積もるのかなあ。
9:08 ここにも休憩所発見
木がなくなった禿山
ここで国道をそれる。
野犬、狂犬病が怖いんですよね。
もう廃屋になってるみたいですね。
ここからへんろ道が始まります。
久々のへんろ道 三坂峠
9:30 やってきました久々のへんろ道。
結構通りが厳しくなってるみたいです。気をつけて進もう。
ここで虫除けスプレーをしっかりしていざ出発!
ここは三坂峠ですね。
まあたしかにへんろ道してるっちゃしてるけど20キロのバックで焼山寺登った時を思い出せばらくちんらくちん。
合間から見える景色、良いですね。
こんな感じでしっかり道がわかるので迷わないです。ありがたい。
がんばる
やっぱり落石もあるみたい。
へんろの道しるべ、やはり見かけるとほっとする。
ほとんど下り坂なので疲れはしないけど結構足に負担がくる。
たまには上も見上げてみよう。
人工物があるとちょっとほっとする。
休憩所が見えてきました。
10:00 休憩所にて少し休む。お手洗いなどはなしで東屋のみ。
多人数でも安心。10分ほど休み再出発。
ありがとうヤングジャンプ君…!
木漏れ日がよい。
舗装路にはいってくる。
この長い長い下り坂を〜(ゆず:夏色)
坂を下っていくと白い建物が見えてきた。
真っ白な建物、伝染病防止の看板から察するに家畜小屋だったみたいです。Twitterのフォロワーさんからの情報だと口蹄疫の時にみんな処分されたとか。
家畜小屋のあとが見えますね。
10:25 ここでへんろ道終了。
危ないところはあんまり見受けられませんでしたが落石してたっぽい場所が結構あったのでそのあたりですかね。
旧遍路宿 坂本屋に到着。
明治末期から大正初期に建てられた遍路宿で、三坂峠の麓にあり、昭和初期まで休息・宿泊の場として賑いを見せていたそうです。
今はおせったい所になっており、お手洗いもありました。
歩きお遍路をしてると、交通の発達により、かつての賑わいが見えなくなった所もこうしてよく目にしますね。
ここからしばらく舗装路を歩いていく。
まさに山!って感じの綺麗な形の三角形の山が出てきてテンションが上がる。
案山子
栗がたくさん。
こう写真を見返すとだいぶ歩いてたなあ。
この辺りからお店が見え始める。
11:39 こうしてようやっと次のお寺に到着。
第46番札所 浄瑠璃寺(じょうるりじ)ご利益のよろず屋、松山最初のお寺
第46番札所 医王山(いおうざん) 浄瑠璃寺に到着。
松山市内で最初の札所。ここは松山市内にある八つの寺の打ち始めです。
浄瑠璃寺の歴史
和銅元年(708年)に奈良の大仏開眼を前にした布教に訪れた行基が仏法を修行する適地として伽藍を建立、本尊の薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩、眷属として十二神将を刻んで安置して開基したと言われています。
寺名は薬師如来がいるとされる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号もまた医王如来に因んだものとなっています。
弘法大師が浄瑠璃寺を訪れたのは、それから100年後の大同2年(807年)にこの寺を再興し、四国霊場の一寺としたと伝えられています。
室町時代末期には足利幕府の武将、平岡道倚が病に苦しみ、本尊に祈願したところ、ご利益で全快したのに感激し、寺塔を再興して厚く帰依しました。
江戸時代の正徳5年(1715年)山火事で焼失し、本尊と脇侍をのぞいてほとんどの寺宝、伽藍を焼失。それから70年後の天明5年(1785年)、住職・堯音(ぎょうおん)が托鉢をしながら全国を行脚し、その浄財で現在の本堂その他の諸堂を再興させ、現代に至ります。
山門はなし。境内はそんなに広くないのですが、いかんせん見所というか、もとい回復スポットがかなり多い。
手水舎
亀の水場も。
本堂
だっこ大師
実際に抱くことができる、幼少時代の弘法大師の姿を写した木彫りの像。本堂と大師堂の前に1体ずつ安置されています。
大師堂
さすが俳句の街 松山のお寺、俳句ポストがこの先どのお寺にもありました。
一願弁天
1つだけ願いを叶えてくれ、中でも知恵・財宝・音楽に関する願いにいいそうな。
佛の足跡(仏足石)★「アニメおへんろ。」めぐみ聖地ポイント
仏様の足の形ですね。
仏様の足跡に直接足を置けるのはここだけ!
仏手花判(ぶっしゅけはん)
文筆達成の願いがかなう釈迦の指紋です。
仏手石
知恵や技能のご利益があります。
このように境内は、ご利益に関するものだらけ。おかげで『ご利益のよろず屋』とも言われています。
納経所にて納経していただき次のお寺へ。
ここからは全てお寺の距離が1時間未満。なのでさくさく進んでいきます。
道端に松山城を模した石像が。
そして10ほど進み
12:17 次のお寺到着。近い!
第47番札所 八坂寺(やさかじ)地獄・極楽巡りができるお寺
第47番札所 熊野山(くまのざん) 八坂寺に到着。
八坂寺の歴史
修験道の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が開山した寺で、飛鳥時代の大宝元年(701年)に文武天皇の勅願を受けて、伊予の国司・越智玉興が堂宇を建立したといいます。
寺は山の中腹にあり、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名になったといわれています。同時にますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来するそうです。
弘法大師が訪れたのは、弘仁6年(815年)のことで、荒れ果てた八坂寺を再興して霊場と定めたそうです。
その後、紀州から熊野権現や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、境内に12坊、48の末寺と隆盛を極め、多くの僧兵を抱える大寺となりました。
ですが、天正年間(1573年~1592年)の兵火によって焼失したのが皮切りとなり、寺の規模は縮小の一途を辿った末、現在の境内となりました。
山門の上を見上げると…
天井画があります。
山門は小川にかかる橋を利用して、立派な屋根のある橋山門となっており、その天井には美しい色彩の天女の絵が描かれています。(極楽門ともいわれます。)
納経所 でかい。
手水舎
階段を登って本堂の方へ。
本堂にあがる石段の下から10段目の左側に「救いの手」なる有り難いものがあります。
これはお遍路さんが石段の上から転げ落ちた時に付いた「手跡」で、その時に怪我がなかったことから「九難を去る救いの手」とされ、足や目の病に効験ある話が現代に伝わります。
本堂
本尊の阿弥陀如来は寄木造の座像で、県の重要文化財。
大師堂
駐車場方向に行くといやさか不動尊像があります。
迫力ありますねえ!
閻魔堂 ★「アニメおへんろ。」めぐみ聖地ポイント
閻魔堂を挟む形で「極楽の途」と「地獄の途」があり、それぞれの様子が壁に描かれています。地獄から入って極楽から出ると極楽浄土へ行けると言われています。
まずは地獄から。
地面は針地獄を思わせるようなトゲトゲが沢山。
そして壁には地獄絵図。
食われとる…
そしてお次は極楽。
地面はなだらかな石で歩きやすい。
そして壁には極楽絵図。
みんな一円玉を差し込んでいる。
外観も含めて地獄の方が凝ってる気がしますね。
極楽は片方だけ絵がありました。
さて、この次は本堂下に行く。
入り口からすでにすごい。
万躰阿弥陀仏
本堂地下には全国の信者から奉納された砥部焼の仏像が約8,000体祀られています。(万いってないのか…という野暮なツッコミはなし)
奉納した信者の出身地毎に並べられた小さな仏様が、天井の高さまでびっりしと並ぶ様は圧巻なので一見の価値ありです。
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番外霊場を巡る
さて、次に行くのは札所ではなく番外霊場です。
池沿いの道を進む。
田んぼの道を突っ切って次の目的地へ。
13:15 文殊院到着。
文殊院
国遍路の元祖といわれる「衛門三郎」の邸宅があった場所に建てられたと伝わっています。
現在の文殊院がある地域は、四国遍路の元祖といわれている「衛門三郎(えもんさぶろう)」の邸宅があった場所だと伝わっており、四国遍路の始まりの地ともいえる重要な場所。
衛門三郎は、この地域を拠点にしていた強欲な庄屋でした。
托鉢に現れた旅の僧を弘法大師とは知らず、追い返そうと、大師の手にした鉄鉢を竹箒で叩き落としたところ、鉄鉢は八つに割れ、翌日から八日の間に衛門三郎の八人の子どもが次々に亡くなってしまったそうです。
改心した衛門三郎は、四国遍路に旅立ち、21回目の巡拝で、死のまぎわに大師に出会うことができ罪を許され、大師が文殊院で因縁切の修法を行ったあと、伊予城主「河野氏」の嫡男として生まれ変わり善政を行ったという伝説があります。
本堂
大師堂
近くにあった荏原城跡
お堀がびっしり。
閑静な廃墟に鉄塔、田園に浸かって
崩壊している…
松山付近は100円自販機が多い。
13:43 次の目的地に到達。
札始大師堂(ふだはじめだいしどう)
この大師堂は、天長元年に空海が川の中州で野宿しようとしましたが、にわか雨で水が溢れ身の置き所がなくなってしまったので、法力で草庵を造り一夜を明かしたとされる場所です。
衛門三郎が四国巡礼に出発した際に、この地に立ち寄り、大師自刻の尊像がまつられているのを見つけ、懺悔し、空海が訪れるのを待ち一夜を明かし、翌朝出発する際に紙に自分の住所と名前を書いてお堂に貼ったいわれています。
このことが、現代のお遍路さんも行う「納札(おさめふだ)」の始まりとされることから、「札始大師堂」と呼ばれています。
お遍路をする者として、これは寄らねばと思い参りました。
さて、再び札所巡りに戻る。
へんろ道を進んでいく。
橋を渡っていくともうすぐで着きます。
14:08 次のお寺に到着。
第48番札所 西林寺(さいりんじ)田園のなかにあるのどかなお寺
第48番札所 清滝山(せいりゅうざん) 西林寺に到着。
境内が周りより一段低い場所にあるため、邪悪な者が踏み入れると無間地獄に落ちると考えられており、いつの間にか「伊予の関所寺」と言われるようになりました。
西林寺の歴史
奈良時代最盛期であった天平13年(741年)、聖武天皇の勅願を受け、行基が伊予の国司、越智玉純公と共に一宮別当寺として堂宇を建立。本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置しました。
元々西林寺は現在地より北東の徳威の里にありましたが、大同2年(807年)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際、寺を今の地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場としました。
17世紀末に火災で焼失しましたが、元禄13年(1700年)、伊予松山藩4代藩主・松平定直らによって一部再建。
宝永4年(1707年)には中興の祖、覚栄法印が村民の雨乞い祈願を成就して松山藩に帰依され、本堂と鐘楼堂を再興。
さらに江戸末期の文化10年(1813年)に大師堂、天保14年(1843年)に仁王門が再建され、現在の姿となりました。
山門
小川の橋を渡り、階段を数段降りて境内へと入っていきます。
石段を登ることが多い四国霊場の中では、このように階段を降りて参道に至るのは珍しいですね。
手水舎
本堂
大師堂
本堂も大師堂もシンプルでよい。こういうのでいいんだよ、こういうので。
福授地蔵 ★「アニメおへんろ。」めぐみ聖地ポイント
納経所前の庭園には、お詣りすると1つだけ願いを叶えてくれるという「福授(ふくさずけ)地蔵」があります。
納経所で納経してもらい次のお寺へ。
さて、あと残りお寺は三つ。とりあえず記事も長くなってしまうのでここで一度切って後編に続きます!
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